相生の歴史
明治45年、6月。頼りない細い道のみが存在する深い森に、開拓民が根を張り、
開墾したところから「あいおい」の歴史が始まりました。
陽の光も届かぬ深い森の中。
短い夏には熊笹をかき分け鍬を入れ、地道に畑をつくり。
灯りも凍る長い冬には、寒さで泣く木の音を聴きながら身を寄せ合い。
少しずつ、しかし着実に、開拓民たちは村を広げていきました。
大正14年、念願の鉄道が開通するとここは一気に“まち”へと姿を変えていきます。
空を覆っていた木々は減り家が増え、小学校や郵便局、診療所が開設されました。
大正から昭和の時代にかけて、あいおいは人々の笑い声が響く、活気あふれるまちへと成長したのです。
そして平成、令和――。
時代の流れと共に、再び小さくなりゆく灯りを眺めながら、それでも私たちはここにいます。
私たちを育んでくれた「あいおい」に、多くの人が行きかう道の駅「あいおい」がつくられた平成15年から、今もなお。
この地に訪れる多くの人に、あいおいにあるあたたかな灯りを伝え続けています。
相生の沿革
入地当時は布川の一六線まで道らしい道があったが、そこから相生までの一里半はアイヌの阿寒通りの細道をたどるほかなかった。しかも細道は川なりに曲折をきわめていたから、里程は現在の道路の数倍もあって、入地の困難は想像に絶するものがあったが、当時すでに二年前に測量した釧美線拓殖鉄道の標杭が埋設してあったので、これが団員への大きな力づけとなり、将来の希望に燃えて入地したという。
秋田団体は入地後直ちに伐木開墾に着手したが、天日を仰ぎ得ない密林で、阿寒山岳に近いので寒さも殊のほか厳しく、深夜に寒気のため立木が凄音を発して裂け、カンテラの灯も凍る始末であった。大正三年には二七線までの拓殖道路ができて交通難はやや解消されたが、天を覆う密林と、身を没する熊笹と雑草の地の開墾は困難をきわめ、午後一時ころともなれば太陽も見えず、一鍬一鍬の手起こしは、一反歩に10人以上の労力を要したという。しかも密林中に僅かに開いた土地なので収穫はなく、冬の造材に従事して営農資金と生活費をまかなったが、なかなか生活の安定は得られなかった。
大正四年十月に飜木禽線駅逓所(藤野清四郎取扱人)が開設され、翌五年に新秋田団体を迎え、同八年八月には相生土田木工場(土田富松)が操業をはじめるなど戸数が増加して集落が充実し、同十三年には阿寒に通ずる道路が竣工し、翌十四年に鉄道開通をみて市街地も形成され、部落は繁栄の一途をたどるに至った。
明治45年6月
大正4年10月
大正5年2月
大正6年
大正8年
大正10年
大正13年
大正14年12月
大正14年
昭和5年
昭和6年12月
昭和7年
昭和9年
昭和10年
昭和10年12月
昭和11年5月〜6月
昭和12年12月
昭和13年11月
昭和16年3月
昭和19年
昭和20年
昭和21年
昭和22年
昭和24年
昭和25年
昭和26年2月
昭和26年
昭和29年
昭和30年
昭和33年
昭和34年
昭和36年12月
昭和39年
昭和39年10月
昭和39年12月
昭和41年12月
昭和42年
昭和43年
昭和44年11月
昭和45年6月
昭和48年11月
昭和50年10月
昭和51年10月
昭和52年
昭和55年
昭和56年
昭和57年
昭和58年
昭和60年3月
昭和60年4月
昭和62年
昭和62年12月
平成2年3月
平成2年10月
平成13年6月
平成15年8月
第一秋田団体入地
飜木禽三基線駅逓所開設
新秋田団体入地
相生地区に造材及び流送始まる
美幌村から分村し、津別村誕生
開拓10周年記念式を挙行、部落名が三基線から上三基線となる
釧路国阿寒に通じる道路完成
国鉄相生線開通
部落名を上三基線から相生に改称、伊藤乗合自動車(阿寒バス)
相生阿寒湖畔にバス運行
私設相生消防組(消防団)設立(後に公設となる)
相生市街に電灯がつく
相生斫伐事業事務所開設、斫伐開始
阿寒が国立公園に指定され、木禽岳一帯がその区域に入る
畜牛組合結成
相生駐在所配置
相生群発地震発生
津別営林署相生貯木場・相生担当区開設、電業所開設
北見相生郵便局開局
相生郵便局電信電話事業開始
集乳所設置
相生郵便局電信電話交換業務開始
津別村から津別町となる
戦後開拓者高台地区に入地
消防第四分団専用庁舎新築(貯木場向かい)
有線放送共同聴取開始
美幌〜相生間にバス開通(北見バス、昭和56年廃止)
相生開基40周年記念式典、相生神社前に開拓記念碑を建立
消防第四分団庁舎保育所向かいに移転
相生小校下戸数269戸、人口1,612名
相生〜北見間にバス運行開始(北見バス、昭和56年廃止)
相生診療所開設
相生公民館、保育所設置
市街地道路完全舗装
第四分団消防庁舎落成
相生地区簡易水道給水開始
津別町簡易水道完成、相生地区給水開始
北見相生郵便局局舎落成
相生バイパス完成、相生老人クラブ発足、
相生育成牧野造成、共同電話設置
相生総世帯数234戸、人口977名
相生プール完成
相生特別母と子の家建築
相生テレビ共同受信組合発足
相生電話交換自動化
相生児童遊園地設置
相生総世帯数172戸、人口476名
相生ふ化場事業開始
相生に中央自治会、第二自治会が生まれる
貯木場廃止
相生駐在所新築落成
国鉄相生線廃止
津別相生間に町営バス運行開始
第二自治会館新築
クラフトビレッジ分譲
保育所廃止
相生農村公園開園
「シゲチャンランド」オープン
「道の駅あいおい」オープン
明治45年6月 第一秋田団体入地
大正4年10月 飜木禽三基線駅逓所開設
大正5年2月 新秋田団体入地
大正6年 相生地区に造材及び流送始まる
大正8年 美幌村から分村し、津別村誕生
大正10年 開拓10周年記念式を挙行、部落名が三基線から上三基線となる
大正13年 釧路国阿寒に通じる道路完成
大正14年12月 国鉄相生線開通
大正14年 部落名を上三基線から相生に改称、伊藤乗合自動車(阿寒バス)
大正14年 相生阿寒湖畔にバス運行
昭和5年 私設相生消防組(消防団)設立(後に公設となる)
昭和6年12月 相生市街に電灯がつく
昭和7年 相生斫伐事業事務所開設、斫伐開始
昭和9年 阿寒が国立公園に指定され、木禽岳一帯がその区域に入る
昭和10年 畜牛組合結成
昭和10年12月 相生駐在所配置
昭和11年5月〜6月 相生群発地震発生
昭和12年12月 津別営林署相生貯木場・相生担当区開設、電業所開設
昭和13年11月 北見相生郵便局開局
昭和16年3月 相生郵便局電信電話事業開始
昭和19年 集乳所設置
昭和20年 相生郵便局電信電話交換業務開始
昭和21年 津別村から津別町となる
昭和22年 戦後開拓者高台地区に入地
昭和24年 消防第四分団専用庁舎新築(貯木場向かい)
昭和25年 有線放送共同聴取開始
昭和26年2月 美幌〜相生間にバス開通(北見バス、昭和56年廃止)
昭和26年 相生開基40周年記念式典、相生神社前に開拓記念碑を建立
昭和29年 消防第四分団庁舎保育所向かいに移転
昭和30年 相生小校下戸数269戸、人口1,612名
昭和33年 相生〜北見間にバス運行開始(北見バス、昭和56年廃止)
昭和34年 相生診療所開設
昭和36年12月 相生公民館、保育所設置
昭和39年 市街地道路完全舗装
昭和39年10月 第四分団消防庁舎落成
昭和39年12月 相生地区簡易水道給水開始
昭和41年12月 津別町簡易水道完成、相生地区給水開始
昭和42年 北見相生郵便局局舎落成
昭和43年 相生バイパス完成、相生老人クラブ発足、相生育成牧野造成、共同電話設置
昭和44年11月相生総世帯数234戸、人口977名
昭和45年6月 相生プール完成
昭和48年11月 相生特別母と子の家建築
昭和50年10月 相生テレビ共同受信組合発足
昭和51年10月 相生電話交換自動化
昭和52年 相生児童遊園地設置
昭和55年 相生総世帯数172戸、人口476名
昭和55年 相生ふ化場事業開始
昭和56年 相生に中央自治会、第二自治会が生まれる
昭和57年 貯木場廃止
昭和58年 相生駐在所新築落成
昭和60年3月 国鉄相生線廃止
昭和60年4月 津別相生間に町営バス運行開始
昭和62年 第二自治会館新築
昭和62年12月 クラフトビレッジ分譲
平成2年3月 保育所廃止
平成2年10月 相生農村公園開園
平成13年6月 「シゲチャンランド」オープン
平成15年8月 「道の駅あいおい」オープン
昭和38年頃/小川商店にて
昭和40年頃/冬の子供達
昭和42年頃/秋祭り
昭和43年頃/保育所の運動会
昭和50年頃/相生小中学校運動会
昭和60年頃/相生線の線路撤去作業
撮影年不明/相生線を走るSL
昭和60年3月/相生線廃止
私の祖父が開拓を始めてから、あいおいの町はみるみるうちに発展していきました。学校や郵便局、はてには映画館まで建ち、町民は1000人を超えたこともあります。ところがしばらくすると、多くの町民は仕事を求めて町の外へ行ってしまいました。
そのとき、私の胸には「このままではあいおいがなくなってしまう」という危機感が湧き上がりました。
地域を存続させ、ここで生きていくためにはどうしたらいいのか。どうにかあいおいに人を集めたい。まず私は、道路沿いでテントを張り、地元の農家さんが作った野菜の販売をスタート。次に旧北見相生駅のある土地が使われていないことに気づき、どうにか活用できないかと考え動き始めました。
「釧路と網走・北見方面をつなぐこの道路沿いに、旅人があいおいの良さを感じながら足を休められるような、新名所をつくれないか」と、当時の町長をはじめとする方々と相談を重ね、そうしてできたのが道の駅あいおいの前身である「相生物産館」です。
それからほどなくして、「相生物産館を、そばを提供する飲食スペースや新井豆腐店の豆腐を再現して販売する機能を有した道の駅にする」話が持ち上がりました。
そこからは道の駅としてのオープン準備で、眠れない夜が続きました。そんな私たちと一緒に、準備に奔走してくれた人たちの支えでなんとかオープンできたのが、いまの道の駅「あいおい」です。足りないものをみんなで持ち寄って助けてくれた、あいおいの地域の皆さん。他の地域から助けに来てくれた皆さん。中には地域外から自費で手伝いに来てくださった方もいました。今でも思い出しては胸が熱くなります。
人と人との巡り会いと協力によって道の駅「あいおい」は生まれたのです。あれからもう随分経ちますが、今でも私たちは道の駅の役に立てればと何かと訪れ、豆腐作りをはじめさまざまな作業をしています。
この地に住まう人も数十人規模になってしまい、寂しくないと言えば嘘になります。それでも道の駅に足を運べば、観光で来られた方やあいおいに移住された方との出会いがあります。
町民でにぎわう昔と、町外からこの地を訪れてくれる方でにぎわう今。これまでの道のりを振り返りながら、これからのあいおいを想像しながら、夫婦ふたりこれからもずっと、ここあいおいでのんびりと生きていくつもりです。
土田栄一 行子
相生尋常高等小学校校舎(昭和14年)
開校50周年(昭和42年)
開校80周年(平成9年)
昭和二十四年五月、戦後教育の出発、新制中学校の発足に合わせて、相生小中学校校章として制定された。
林産資源に恵まれたこの地域の松、松かさを図案化し、相生の自然の美しさ、主産業を象徴している。
四方に伸びる森林のデザインは、相生の大きな発展を期待し、飛翔を表している。
平成元年三月に中学校が本岐中学校に統合された折りに、校章中央を改め、現在のようになったものである。
平成9年11月発行「津別町立相生小学校開校80周年記念誌」より抜粋
昭和二十四年五月、戦後教育の出発、新制中学校の発足に合わせて、相生小中学校校章として制定された。
林産資源に恵まれたこの地域の松、松かさを図案化し、相生の自然の美しさ、主産業を象徴している。
四方に伸びる森林のデザインは、相生の大きな発展を期待し、飛翔を表している。
平成元年三月に中学校が本岐中学校に統合された折りに、校章中央を改め、現在のようになったものである。
平成9年11月発行「津別町立相生小学校開校80周年記念誌」より抜粋
昭和37年9月発行「開基五十周年記念 北見相生の沿革と現勢」より抜粋
高橋 護 写真集「レンズの瞬き」
津別町上里に生まれ、その後、津別町相生に移り住み、郵便局員等の仕事の傍ら、相生やその周辺の自然、相生の人々の生活、家族などの写真を撮影した。 昭和60年に、それまで国内の公募展に応募し入選した作品を集めて、写真集「レンズの瞬き」をごく少部数を自費制作した。